エース桃組

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「すすめけん」 平野耕太
げんしけんのキャッチフレーズ「オタク、かっこわるい?」を見た平野耕太
10年前、専門学校生・平野耕太漫研ではあったが「げんしけん」ではなかった。
「オタク、かっこわるい?」という問い自体が存在しない「オタクは格好の悪い生き物だ」
が己と周囲の共通認識で、オタクは伏目がちな日陰者であった時代。
しかし今、彼らの下の世代である10代〜20代前半は「おたく」であることを楽しんでいる。
じゃあ、俺たちは何だ。なんで俺たちには「げんしけん」がなかったんだ!?


1989年7月の翌月、夏コミで伝説となるフレーズが生まれていた。
「ここに10万人の宮崎勤がいます」
1973年生まれの平野耕太は当時、高校生。
「アニメ&コミック研究部」の平野部長は
「オイ、ロリコン部ーッ 幼女さらうんじゃねーぞーッ」ぎゃはははははは
という嘲笑の屈辱に耐える日々だったのだ。


うがあああああぁぁぁぁ
うがあああああぁああ
ボクこれから猛勉強して筑波大のげんしけん入ります。(そんで大野さんを犯す。)
姦(カン)。


というお話だった。
こういったご時勢では捻くれてしまうのもやむを得ないことで、広江礼威になる道を失った平野耕太
歪を漫画作品へと昇華させ、蝶ステッキーな小デブになりましたとさ。
(別に広江礼威が偉いわけでなく、方向性の問題で…)


もしかすると、今30弱〜35強の世代はこの事件から歪を抱えたことでクリエーターになった人と、
何もなければクリエーターになっていたであろうけれど、宮崎をきっかけにオタクを引退した人、
という他の世代とは若干違う人種構成なのかもしれない。
広江礼威は漫画業界途中参加らしいので、さほど影響を受けなかったと思われる。
http://web.archive.org/web/20040209155627/http://village.infoweb.ne.jp/~nmg/int99-3.htm
年代順で分けると、平野耕太の言葉を借りれば
30代後半〜40代 開拓者
30代前半〜20代後半 宮崎の影響を受けた者
20代中盤以下 げんしけん
になるわけか…?
20代中盤以下をげんしけんとしたのは実体験からで、
差別されるというより「なんか、よくわかんない根暗な兄ちゃんが女の子殺して回ってる」
と、小学生という被害者に比較的近い立場だったため恐怖する側だった。極端な話、僕から下は
「勤、駿、賢治(←宮沢)はなんか似てて紛らわしい」程度の認識なんじゃなかろうか…


さすがに、これじゃイカンと思い、ここまで影響を及ぼした宮崎勤が何者なのかを
調べてみたのだが、こちらがまとまっていてわかりやすかった。


宮粼勤幼女連続殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/miyazaki.htm


うーん…生まれつき障害を持っていたことで屈折してしまったのなら、世間一般の見解であろう
「オタクだから犯罪を犯した」
ではなく、
「犯罪を犯す要因を持った人間がオタク文化を好んだ」
のパターンに思える。
大塚英志もいわゆる「オタク」とは少々異なると考えたようだし、
大塚英志が証言していた事実自体にも驚きだ)
オタクを弁護するようだが、ちょっと特殊な人だったという見方になった。


実際の宮崎がどうであれ、オタクは差別され平野耕太アワーズの看板漫画家の一人になる
要素の一つとして作用したのは間違いないと思う。宮崎を褒める気はまったく無いし、
平野耕太にとってもこれがベストだったとも思わない。ただ、こういう作用を与えた人間と
受けた人間がいた。ということだけは憶えておこう。




えーと……大塚英志で思い出したんだが、長々と偉そうに書いたけど
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061497030/qid=1094750782/
これにほとんど書いてありそうだなぁ('A`)